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2016年5月19日 (木)

味噌の研究 -八丁味噌・愛知県岡崎市で豆味噌が盛んに作られてきた理由-

 東海地方を中心に育まれてきた豆味噌文化。

 徳川家康の出身地である愛知県岡崎市の八丁味噌は,そうした豆味噌の代表格とも言えるでしょう。

 今や「名古屋めし」に欠かせない食材の1つともなっている豆味噌について理解を深めるため,八丁味噌で有名な愛知県岡崎市を訪問しました。


豆味噌のブランド「八丁味噌」

 「八丁味噌」ブランドで豆味噌を製造しているのは,岡崎市八帖町にある「まるや八丁味噌」と「カクキュー八丁味噌」の2社のみです。

 八丁味噌の名称は,岡崎城から西へ八丁(約870m)の地で作られていることに由来します。

 名鉄名古屋本線の岡崎公園前駅や愛知環状鉄道の中岡崎駅からだと,すぐ目の前なので,一丁(約109m)あるかないかで味噌工場にたどり着くことができます。

(八丁蔵通り)
Photo

 今回の訪問で,まるや八丁味噌とカクキュー八丁味噌,両社の豆味噌関係施設を見学させていただきました。


八丁味噌の味噌蔵

 まるや八丁味噌の外観です。

(まるや八丁味噌外観)
Photo_2


続いて,カクキュー八丁味噌の外観です。

(カクキュー八丁味噌外観)
Photo_3

 両社はすぐ隣にあるので,一度に続けて2社の工場見学をすることも可能です。


八丁味噌の製造工程

 八丁味噌の特徴は,米や麦を用いず,大豆,塩,水,麹だけで作られることにあります。

 その製造工程を簡単に説明すると,大豆を蒸して丸めた味噌玉を作り,さらに麹をつけて豆麹(味噌麹)を作り,これに塩と水を加えて蔵で2~3年(「二夏二冬」)熟成させて出来上がるという流れになります。

(八丁味噌製造工程)
Photo_4

 まるや八丁味噌に展示されていた製造工程です。

 八丁味噌だけでなく,米味噌をブレンドした「赤だし(味噌)」の製造工程も記載されていることから,赤だし(味噌)としての出荷量も多いのではないかと思います。


味噌玉と仕込み風景

(味噌玉,赤だし味噌,八丁味噌,大豆)
Photo_5

 これは,まるや八丁味噌で用意されていた材料や製品の見本です。

 左上が味噌玉,左上が赤だし(味噌)と八丁味噌の袋詰め,左下が八丁味噌,右下が大豆となっています。

 味噌玉は手で丸めたぐらいの大きさでしたが,1つの桶に作る味噌の量(約6トン)を考えると,かなり小さいイメージを持ちました。

 この味噌玉の大きさは,味噌玉と麹の配合割合などを考慮して決められた大きさだと思います。

 カクキュー八丁味噌史料館に,昔の仕込み風景が人形と模型で再現されていました。

(昔の仕込み風景)
Photo_6


木桶と積み石

(仕込み桶の様子 まるや八丁味噌)
Photo_7


(仕込み桶の様子 カクキュー八丁味噌)
Photo_8

 高さ約2m,直径約1.8mの杉の木で作られた桶(「六尺」と呼ばれる)に味噌が仕込まれている様子です。

 温度調整はされず,蔵の自然の温度で貯蔵されています。

 1つの木桶で約6トンの味噌ができ上がります。

 木桶の上に積み上げられた石の重さは約3トンにもなります。

 大きい石で1つが約60kg,小さな石でも1つが10kg前後あります。そして,たくさん積めるよう,石は三角形に積まれています。

 ただ,これだけ石を積むと,途中で仕込みの経過を確認することができないため,発酵が進んだ味噌玉に塩と水を混ぜ合わせる作業は,まさに一発勝負の世界なのだそうです。

 この状態で二夏二冬,じっくり熟成されます。

(木桶と積み石)
Photo_9

 木桶と積み石が天日干しされ,次の出番を待っている様子です。


矢作川の恵みから生まれた八丁味噌

 積み石を眺めていて,「これは近くの川で採集された石ではないか」と思いました。

 そこで思い出したのが,名古屋から名鉄で岡崎公園前駅に到着する直前に視界に広がった「矢作川(やはぎがわ)」の風景です。

 「これは矢作川の石ではないか」と直感的に思ったのですが,説明を受けるとその直感は当たっていました。

 岡崎で八丁味噌が誕生した理由としては,
(1)矢作川の良質な伏流水や石など,豊かな自然に恵まれている地であること
(2)矢作川の水運や東海道の陸運など水陸交通の要となっており,大豆や塩などの原材料を調達しやすく,また,製品を流通させやすい地でもあること
(3)味噌作りをはじめとする醸造に適した気候風土であること
などが挙げられると思います。


日吉丸(豊臣秀吉)と八丁味噌の言い伝え


 両社には,それぞれ日吉丸(豊臣秀吉の幼名)にまつわる言い伝えがあります。

 まるや味噌には,日吉丸が当時のまるや味噌に忍び込んで勝手に飯を食べていたところ,蔵の人間に見つかってしまい,逃げる途中に味噌の積み石を井戸に放り込んでその井戸に落ちたものと思わせ,難を逃れたという言い伝えがあります。

(日吉丸「石投げの井戸」)
Photo_10

 一方,カクキューには,日吉丸が矢作橋上で「こも」をかぶって寝ていたところ,蜂須賀小六と出会い,出世の糸口をつかんだが,その「こも」は当時のカクキューに忍び込んで盗んだものだったという言い伝えがあるのです。

(カクキューの商品図柄)
Photo_11
(合資会社八丁味噌作成パンフレット「八丁味噌の郷」から引用)

 話は違えど,各社とも同じ豊臣秀吉にまつわる言い伝えがあることは,興味深い話です。


まとめ

 以上御紹介したお話から,愛知県岡崎市で今日まで豆味噌が盛んに作られてきた理由として,矢作川の豊かな自然の恵み,水陸交通の拠点,味噌作りに適した気候,そして徳川家康や豊臣秀吉などの武将による兵糧食としての豆味噌の重用といった,地理的・歴史的背景があることが御理解いただけるかと思います。

(関連サイト)
八丁味噌協同組合
http://www.hatcho.jp/

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