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2023年2月12日 (日)

日本のバウムクーヘン発祥の地・似島 -似島とカール・ユーハイム,似島バウムクーヘン-

 バウムクーヘンで有名な「ユーハイム」の創業者,カール・ユーハイムは,日本軍の捕虜として現在の広島市南区似島(にのしま)の捕虜収容所に連行されたドイツ人で,彼の焼き上げたバウムクーヘンを広島県物産陳列館(現在の原爆ドーム)でお披露目したことにより,日本で初めてバウムクーヘンが知られることとなりました。

 このお披露目をしたのが1919年3月4日のことで,これを記念して毎年3月4日は「バウムクーヘンの日」とされています。

 今回は,日本のバウムクーヘンとカール・ユーハイムについて,似島のお話を中心に御紹介したいと思います。


広島県物産陳列館で開催されたドイツ技術工芸品展覧会とカール・ユーハイム

 似島捕虜収容所で暮らしていたドイツ人カール・ユーハイムは,厨房でドイツのお菓子を作り,仲間に振舞っていたようです。

(似島捕虜収容所とカール・ユーハイム)
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 「南区七大伝説 菓子伝説(バウムクーヘン上陸秘話)」南区魅力発見委員会から一部引用

 ドイツ人捕虜の方々が日本の捕虜収容所で母国の甘いお菓子が食べられることに感動し,発せられた言葉が「ブンダバー(素晴らしい)」だったのでしょう。

 当時の日本が国際社会に仲間入りするため,捕虜を人道的に扱っていたことも,似島でバウムクーヘンが作られた大きな要因となっています。

(広島県物産陳列館(ドイツ技術工芸品展覧会とカール・ユーハイム))
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 「南区七大伝説 菓子伝説(バウムクーヘン上陸秘話)」南区魅力発見委員会から一部引用

 そして大正8(1919)年3月4日,日独親善のため,広島県物産陳列館で開かれたドイツ技術工芸品展覧会の場で,カール・ユーハイムが日本人に初めてバウムクーヘンを披露したのです。

(バウムクーヘン,似島から全国へ)
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 「南区七大伝説 菓子伝説(バウムクーヘン上陸秘話)」南区魅力発見委員会から一部引用

 会場は連日押すな押すなの大盛況となり,この展覧会をきっかけにバウムクーヘンが広島から全国へ広まりました。


日本のバウムクーヘン発祥の地・似島

 日本のバウムクーヘン発祥の地・似島を訪問しました。

(元宇品(広島港)から眺めた似島・安芸小富士)
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 似島は,広島(宇品)港から南に約3kmの場所にある島です。

 広島(宇品)港からフェリーで似島へ渡りました。

 「似島臨海少年自然の家」に到着すると,グラウンド入口に興味深い掲示板がありました。

(掲示板(菓子伝説の地へようこそ))
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 「菓子伝説の地へようこそ」
 「注目を集めるのが,第一次世界大戦のときドイツ兵の捕虜収容所があったことからドイツとの文化交流が行われたという歴史です」
 「ドイツ銘菓バウムクーヘンが日本に初めて伝わったのが似島だといわれています」

 日本のバウムクーヘンの聖地を訪れた実感がわきました。

(似島臨海少年自然の家・グラウンド)
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 この似島臨海少年自然の家は,かつてはドイツ軍俘虜(捕虜)収容所が存在した場所にあります。

 「ドイツと日本のサッカー国際親善試合が,この広いグラウンドで開催されたのでは」
 「この地でカール・ユーハイムがせっせとバウムクーヘンを焼いていたのでは」
と想像を膨らませながら散策しました。

 その後,この似島臨海少年自然の家を起点に,似島のシンボルとなっている山・安芸小富士を登りました。

 出発前に地元の方に登山所要時間を伺ったところ,約40分とのお話でした。

 「小さな山のようだし,余裕を持った時間でおっしゃったのだろう」と気楽な気持ちで山を登りましたが…実際には意外と距離も坂道もあり,山頂まで本当に40分かかりました。

 2月でしたが,汗をかきながら山を登りました。

(安芸小富士・山頂からの展望(広島市街方面))
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 しんどかった分,山頂から眺める景色は最高でした。

 その眺めは,ドローンか飛行機で上空から眺めたような感じでした。

(安芸小富士・山頂からの展望(似島港・家下))
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 こちらは似島の中心地・似島港のある「家下(やじた)」地区の様子です。

(安芸小富士・山頂からの展望(峠島と牡蠣いかだ))
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 こちらの写真は,似島に近い峠島(とうげしま)と牡蠣いかだの様子です。

 峠島をぐるっと囲うように牡蠣いかだが配置されているのが面白いです。

(安芸小富士・山頂からの展望(引き波))
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 波がなく湖のような海は,瀬戸内海ならではの景色です。

 「引き波(航行する船の後にできる白い波)」が美しいラインを描いていました。

 山頂で昼食をとり,しばらく景色を満喫した後,下山しました。

 下山には30分もかかりませんでした。

 下り坂で同じ道を歩いて距離感を把握できている分,楽でした。


似島バウムクーヘン

 再び似島港(家下地区)へ戻りました。

 戻りのフェリーを待つ間,家下地区を散策しました。

(バウムクーヘン案内板(似島合同庁舎))
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 似島港に近い似島合同庁舎で,バウムクーヘン案内板を見つけました。

 この記事でも最初に御紹介した「南区七大伝説 菓子伝説(バウムクーヘン上陸秘話)」が紹介されています。

 右下のサッカーボールに乗ったキャラクターは「ばーむん」です。

 ばーむんの好きなことは,ずばり「サッカーボールに乗ること」。

 このキャラクターにも,似島のバウムクーヘンとサッカー国際親善試合が反映されています。

 似島港のフェリー待合所で,似島のお土産が紹介されていました。

(お土産案内(似島バウムクーヘン))
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 「バウムクーヘン発祥の地 似島」
 「似島でお土産が買えるのはココだけ!」

 この待合所に近い「ウエルカム似島」で似島のお土産・バウムクーヘンが販売されているようなので,行ってみました。

(ウエルカム似島)
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 ウエルカム似島は,似島の観光案内所です。

 入口で似島限定のお土産「似島バウムクーヘン」が販売されていました。

(似島バウムクーヘン販売の様子)
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 商品を手に取り,店内で購入しようとしたところ…

(似島バウムクーヘン販売の様子(拡大))
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 「ドイツ人捕虜が作った似島バウムクーヘン」
 「代金は左の料金箱へお願いいたします。」

 なんと無人販売でした。

 「計算機もご用意しております。ご自由にご利用ください。」

 セルフで計算し,その代金を隣の透明なアクリル製の箱へ入れて購入するようです。

 千円札1枚と百円玉3枚を箱に入れ,似島バウムクーヘンを1袋購入しました。

 自宅に持ち帰り,改めて似島バウムクーヘンをじっくり眺めました。

 「ドイツ人捕虜が作った似島バウムクーヘン」とありますが,これは「ドイツ人捕虜が作った製法で作った似島バウムクーヘン」という意味なのでしょう。

 当時(1919年前後)のドイツ人捕虜が作ったものなら,とっくに賞味期限が到来してますから(笑)

 このほか,包装紙にカール・ユーハイムやドイツ技術工芸品展覧会の紹介文やイラストがありました。

(カール・ユーハイムの紹介文)
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 「似島バウムクーヘン」包装紙から一部引用

 「第一次世界大戦で日本軍は青島市(中国)に駐留するドイツ軍を攻撃しました」

 「投降したドイツ軍は3906人でしたが,日本軍は4000名の大台に乗せるべく,人数合わせのために翌年になって在留民間人を捕虜に加えたと言われています」

 「この中に非戦闘員だったカール・ユーハイムが含まれていました」

 「カールは大阪俘虜収容所へ移送されましたが,その後インフルエンザ予防のため,広島の似島検疫所へ移送されました」

 「カールはバウムクーヘンなど菓子作りの担当になりました」

 「カールはバウムクーヘンを焼くための堅い樫の薪や,当時はなかなか手に入らなかったバターなど材料集めに苦労したそうですが,バウムクーヘンを焼き上げることに成功します」

 「広島県物産陳列館(現・原爆ドーム)で開催されたドイツ作品展示会にて製造販売を行います」

 「これが日本で初めて作られたバウムクーヘンです」

 カール・ユーハイムは人数合わせで捕虜になったのですね…。

 それでもめげず,バウムクーヘンを焼いて捕虜を励まし,日本に広めるビジネスチャンスをつかんだのは御立派です。

(広島県物産陳列館(ドイツ技術工芸品展覧会資料))
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 「似島バウムクーヘン」包装紙から一部引用

 こちらは広島県物産陳列館のイラストで,展示品が紹介されています。

(ドイツ兵のイラスト(似島独逸俘虜技術工芸品展覧会目録))
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 「似島バウムクーヘン」包装紙から一部引用

 これはドイツ兵のイラストが描かれた展覧会の目録の一部です。

 ひととおり包装紙を観察した後,包装紙から中身を取り出しました。

(似島バウムクーヘン(箱詰め))
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 このようにバウムクーヘンが箱詰めされていました。

 それではバウムクーヘンを取り出してみましょう。

(似島バウムクーヘン(ホール))
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 ハードタイプのバウムクーヘンです。

 表面が砂糖でコーティング(シュガーコーティング)されています。

(似島バウムクーヘン)
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 バウムクーヘンを包丁ですくい取るようにカットしました。

 しっかりと焼かれたバウムクーヘンで,表面はシュガーコーティングも手伝ってカリッと,中は生地がみっしりと詰まっていました。

 バター風味豊かで,しっかりとした弾力のある,伝統的製法で作られたバウムクーヘンでした。

(似島桟橋とフェリー)
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 似島訪問で,日本のバウムクーヘンの成り立ちも含め,明治から昭和にかけての「軍都広島」の歴史を肌で感じることができました。

 戦争は決してあってはならないものですが,そんな環境におかれても,バウムクーヘンやサッカーを通じて人と人との交流がなされ,新たな文化が生み出されたことに,国境を超えた人間本来の強さ・やさしさ・たくましさを感じました。

 これぞまさに「ブンダバー(素晴らしい)!」


<関連サイト>
 「ユーハイムの歴史」(株式会社ユーハイム)
 「広島市似島臨海少年自然の家」(広島市南区似島町字東大谷182番地)
 「ウエルカム似島」(広島市南区似島町家下27番地)

<関連記事>
 「ドイツ・ウィーン菓子の特徴と主な菓子1 -シュトロイゼルクーヘン・レープクーヘン・バウムクーヘン-
 「「バウムクーヘン博覧会 2017」 -広島からはじまる日本のバウムクーヘンの歴史-
 「日本のバウムクーヘン100周年イベント -2019広島みなとフェスタ・バウムクーヘン博覧会 2019-
 「バウムクーヘン博覧会 2021 -AI焼き立てバウムクーヘン・全国バウムクーヘン食べ比べ・バウムフリット・切り売りバウムクーヘン・詰め合わせセット-
 「バウムクーヘン博覧会 2021 -ファットリア・ダ・コジモのガトーピレネー-
 「バウムクーヘン博覧会2022 -ユーハイムクランツ・THEO・バウムクーヘンBAR47・バウムフリット・ファイナルクーヘン総選挙・究極のバウムクーヘン-
 「ひろしま南区スイーツフェア -南区3名山(似島(安芸小富士)・黄金山・比治山)と代表花(ミモザ・桜・広島椿)のスイーツ-

<参考文献>
 広島市『南区七大伝説 菓子伝説(バウムクーヘン上陸秘話)』南区魅力発見委員会

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コメント

第一次世界大戦がなかったら、日本でバウムクーヘンも誕生していなかったわけですねー。
何とも不思議なめぐりあわせ。
私の大好き(笑)デイリーポータルZで、少し前にバウムクーヘンの記事がありました。
https://dailyportalz.jp/kiji/den-baumkuchen-anschneiden
それによるとバウムクーヘンは「20世紀前半はキャビア並の高級品」だったらしいですが、日本では「押すな押すなの大盛況」になるほど庶民が気軽に買える値段だったんですかね…?

人数合わせで捕虜というのは不運ですが、おかげで歴史に名を残せた訳で、運不運というのは、その人の意思によって裏返す事が出来るのですね!
インフルエンザが流行らなければ、大阪が日本のバウムクーヘン発祥の地になっていたかもしれませんが^o^
毎週漫画を取り入れて下さり、記事がより分かりやすくなりましたね(^_^)

chibiaya 様

chibiayaさん,こんばんは!
いつもコメントいただき,ありがとうございます。

そうですね。広島でバウムクーヘンが紹介されたのも,第一次世界大戦の影響によるものですね。
偶然が積み重なって歴史は作られることがよくわかる出来事です。
デイリーポータルZ,私も読ませていただきました。
確かに,やわらかいバウムクーヘンは,そぎ切りにし,少し温めると抜群に美味しいですよ~。
ドイツではバウムクーヘンは「20世紀前半はキャビア並みの高級品」だったのですね!
カール・ユーハイムは,なぜそんな高級品を,ただでさえ材料が乏しい日本で作ろうとしたのか,謎です…。
考えられるのは,①「生地を竹の棒(ドイツでは木の棒)に塗りながら焼く」など,日本にある身近な材料・食材で安く作られた,②バウムクーヘンをホールではなくカットされたもので販売された,③日独親善・産業奨励を兼ねて役所から補助金が出た,④物珍しいため,高額でも売れたなどの特別な理由があったのでしょう。
現在でも,ドイツ人よりも日本人の方がバウムクーヘンをよく食べるようですね(笑)

なーまん 様

なーまんさん,こんばんは!
いつもコメントいただき,ありがとうございます。

カール・ユーハイムは人数合わせで捕虜。私も今回初めて知りましたが,あまりに理不尽でかわいそうですよね…。
おっしゃるとおり,運不運,幸か不幸かは,その人の意思,考え次第だと思います。
「逆境をバネにする」,「ピンチをチャンスに変える」という言葉は,まさにカール・ユーハイムの生き方に当てはまるように思います。
インフルエンザがなければ,そして後藤新平が似島に検疫所を作らなければ,広島はバウムクーヘンと無縁の地だったことでしょう。
本当に歴史は偶然の積み重ねですね。
今回は軍都広島ならではのお話を御紹介しました。

このところ漫画の御紹介が続いておりますが,それだけ漫画が好きで読んでいるということです(笑)

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